久々にキーボードに向かっているが、
日々様々変り行くことおびただしい。
当初めだか日記として勧められたこの場であるが
めだか達は、増えることなく次々と1年をめどに死に行き
最後の1匹を失ってから久しい。
ばたばたと今までになく老衰以外で理由もわからないまま
死に行く姿は後味が悪くそれ以来飼う気も失ってしまった。
知己もなく、慣れ親しんだ様々が手に入らないこの地で
自分らしくあり続けるのには・・・ともがき苦しみ
去年の雪、いまいずこと問いかけては
己の根幹をなす、色々を振り返るために
記述をしていた面もあったと思う。
マイフェバリットは理解されえないものであるという状況は
いまだにかわることはなく
ここにいる限りは将来もかわらないだろう。
知と教養に価値を置く昔風の価値観を持つこと。
それすらもままならないということは実に大変だ。
しかし、知と教養、まあ特化した能力を持っていたとしても
人間としての基本的なコミュニケーション能力を欠いているとすれば
どれほど尊敬をしようが、その先というものはないということも
遅まきながらも体験として得た。
相対、何が必要なものなのか。
何が無くても生きていけるものなのか。
本当に価値を感じるべきものはなんなのか。
実にいまだに見つけ出せずにいる。
この1月、2月、体調の悪い時期が多かった時に夢をよく見た。
母が死ぬ前に語っていた夢の類型のようだった。
「家中が凄い埃で、ばたばた屋根裏からなにからはたき出すの。
人もいないのに仏壇の鉦が鳴るの…」
さすがに仏壇はでてこなかったが
飼っていた犬と夢で再会するのはありがたいが
糞まみれの家の様子には閉口すること然り。
ああ、私の人生こんなに掃除することが必要なのだと半泣きになる感覚があった。
そうやってまるで死ぬ前の人のように何かを整理する夢を幾度と見た。
次々と飼っていた犬達が夢で会いに来る。
実のところ、私の送ってきた人生では
人から受けた愛よりも犬から受けた愛のほうがより多いのだから仕方ない。
人間対人間というのは大概odi et amo になる。
どこかに記録しておいたほうがいいものとしては
この3月の頭に体験した、ふっと無重力を体感する感覚だろう。
海を浮沈するクリオネの感覚…みたいなものだ。
自由に動く、舞い上がる、
重力と無縁な喜びとはこのようなものかと思えるものだった。
実に不思議な体感だった。
などなど取りとめのないことを記録がわりに書いて終わる。