言葉を失って久しい伯母からひとこと出た言葉は「殺生な」だった。
チェーンストークス呼吸で、意識喪失している無呼吸の時間は約30秒。
しかしながら、入院当初つまりは昨年の11月と比べれば
表情がある。
視線をあわせようとする。
4ヶ月ぶりに病室を、病院を移動するのに、周囲の様子の変化に
ストレッチャーの上で横たわったまま目を見張ってみせる。
バルンカテーテルも抜けている。
ただ、左の鎖骨には中心静脈栄養の管が入っている。
この元気そうな姿は実のところ、本来ありえない、
医療の賜物であることをつい忘れそうになる。
持続性感染の症状は続いている。
使わない喉はあごからふくれるようにカーブを描き盛り上がり、
佩用症候群と呼ばれる状態になっているのだろう。
ルートからの感染を防ぐために拭くだけになっている足は
ぼろぼろとめくれあがる皮膚の落屑がひどい。
それは足だけではないが。
急性期病院から、老人向け病院の一般病棟へ。
1ヶ月から2ヶ月後、退院をするようにうながされている。
次の病院は家族が探すように、とのことだった。
この病院では胃婁の造設はしない。
急性期病院でなくスタッフもいないから、だそうだ。
希望があれば、入浴も出来る限りはできるそうだ。
ほんのしばらくであれ、ほっとはする。
しかし転院することでこの4,5年を暮らしていた
グループホームからひきあげることになった。
グループホームですごした、利用者、スタッフ一体の
家族のようなかかわりが、もう、彼女には得られない。
老いるということは、喪失の連続だとはよく言った言葉だ。
脳を病が喰い尽くし、記憶を飛ばし、
おそらくは時間の流れもわれわれと違うだろう彼女が、
最後に転院先まできてくれたグループホームのスタッフの顔を見て
何かがつながって発語した、と思えば、それは「殺生な」だった。
大正生まれの人間にこそふさわしい語彙だと思った。
そして、スタッフか帰ってから、なにかを搾り出すように
辛い表情とうなり声をあげている姿に、
身体の不調ではない、心の辛さだと思った。
慟哭という言葉がおそらくは当てはまるのだろう。
胃婁はしないという選択をして、
さらに日常生活が営むことが許されるなんてことはありえないのだろうか?
陽だまりのように過ごせたグループホームでの日々が終わってしまった。
そのことが信じられないのは本人もだろう。
posted by CORONA at 00:58|
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